高松市、少女裸像撤去で芸術と規範の対立激化
概要
高松市は、市中央公園に設置されていた少女2人の裸像を撤去する方針を固めた。市には小学生から「見ていて恥ずかしくなる」との意見が寄せられ、公共空間に不適切との判断に至った。戦後平和の象徴として建てられた像の撤去は、ジェンダー意識や社会規範の変化を反映した決定として全国的に議論を呼んでいる。専門家は「日本独自の文化現象」と指摘する一方、芸術擁護派からは「表現の自由の侵害」との批判が高まり、ソーシャルメディアでも賛否が激しく交わされている。
像撤去の背景と経緯
問題となった裸像は、戦後の復興期に「平和と純真」を象徴する目的で地元の芸術家が制作し、中央公園に設置された。設置から半世紀以上、市民の目に触れ続け、観光資源としても一定の役割を果たしてきた。しかし近年、社会全体でジェンダー意識や性教育への感度が高まる中、この裸像が「子どもに不適切」とする声が市に寄せられるようになった。
市が実施した調査では、小学生から「友達と通ると恥ずかしい」「裸を見せるのはいやだ」という率直な意見が集まり、保護者からも「公共空間における裸像は子どもの感覚にそぐわない」との要望があった。これを受け、高松市は「公共空間における利用者の心理的安全を優先する」との立場から撤去を決定した。市長の鶴間秀典氏は「市民に寄り添った判断」と説明している。
社会規範の変化とジェンダー意識の影響
戦後直後の時代背景では、裸体表現は「生命力・純粋さ・自然との調和」を象徴するものとして受け入れられていた。特に美術教育の一環として、裸像は「人間の普遍的な美」を示す教材として評価されていた。しかし現在の社会規範は大きく変化し、裸像が「性的な表現」と誤解されるリスクが強調されるようになった。
特に公共空間では「誰もが安心して利用できる場であるべき」との認識が強く、裸像の設置が心理的な不快感を与える場合、それを問題視する声が増えている。こうした社会的変化は、芸術表現と公共性の調整を難しくしており、今回の撤去判断もその延長線上にある。
芸術擁護派の反発と文化的論点
一方で、芸術家や文化人の立場からは撤去への強い批判が出ている。東京藝術大学の美術史教授は「芸術を性的視点だけで評価するのは文化的後退」とし、作品の歴史的・芸術的価値を軽視する姿勢に危機感を示した。
また、戦後の文化遺産としての価値を指摘する意見も多い。「平和や再生を象徴する像を消すことは、地域の歴史を否定する行為だ」との声や、「説明パネルを設置するなど誤解を防ぐ方法があったはずだ」という提案も出ている。
ソーシャルメディア上でも意見は真っ二つに割れており、「子どもの感覚を尊重すべき」という賛同意見と、「表現の自由を奪う過剰反応」という批判が激しく対立している。
全国的な波紋と今後の影響
今回の決定は、高松市だけの問題にとどまらず、全国の公共芸術への影響を及ぼす可能性が高い。日本各地には同様の裸像や裸体をモチーフにしたモニュメントが多数存在しており、「前例ができたことで撤去が相次ぐのではないか」との懸念が広がっている。
文化行政の観点からも課題は大きい。今後は「公共空間に設置する芸術の基準をどう定めるか」「誰の声を優先するか」が問われることになる。教育現場でも、子どもに芸術作品をどう伝えるかという問題が避けて通れない。
私の感想と考え
私は、この裸像撤去問題は「時代に即した公共性の確保」と「文化的連続性の維持」という二つの価値が正面から衝突した事例だと考えている。小学生が不快感を覚えたことを軽視することはできないが、それを理由に撤去という結論に直結させるのは拙速だったのではないか。
むしろ重要なのは「どう伝えるか」である。たとえば説明パネルを設け、芸術的意義や制作背景を示すことで誤解を避ける方法は十分に考えられた。撤去か存続かという二択ではなく、第三の道を模索すべきだったと私は思う。
表現の自由は民主主義社会の根幹であり、制限は常に最小限にとどめる必要がある。今回の判断が他自治体に波及し、芸術が萎縮する「悪しき前例」となる可能性は大きな懸念である。公共空間と芸術の共存をどう実現するか、今後の全国的な議論が求められるだろう。
引用元
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NHK「高松市、中央公園の裸像を撤去へ」(2025年8月)
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朝日新聞デジタル「公共空間と裸像、賛否渦巻く」
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香川県広報資料(2025年8月)